法務キャリアの登り方

第5回 流れに身を任せて巡り合ってきたご縁 「生きたもん勝ち」と語る70歳法務パーソンの人生(下)

法務部
宮田 正樹

伊藤忠商事で営業マンとして入社した後、法務部員として活躍された宮田 正樹さんの半生を3回にわたって振り返ります。前回はカナダでの駐在を経て、40歳から法務部員としてのキャリアを築かれたお話を伺いました。今回は、伊藤忠を退職してから現在にいたるまでのお話となります。

若い人材を育てたい

宮田さんは50歳を迎え、長く勤めていた伊藤忠を退職することに決め、人材紹介会社から提案された靴メーカー・小売業の卑弥呼で新たな道を歩み始めます。

宮田さん
卑弥呼の求人内容を見た途端に、もう心は卑弥呼(笑)。わたしの原点である靴を扱っている会社で、さらに募集要項には、「海外ブランド展開のプロジェクトマネージャー」と書かれていたのです。わたしは知的財産もやっているし、ライセンス契約もやっているし、「これは俺のためだけの仕事や」ということで、即面接を受けたんですよ(笑)。そうして卑弥呼へ転職することになるわけですが、入社してみたら話が全然違うんです。「宮田さん、うちは法務はないから総務の仕事をお願いします」って社長に言われてね(笑)。どうも、海外展開については社長がもう気が変わってやる気がなくなっちゃっていたわけです。それで総務の専任にさせられてしまいました。

そうそう、卑弥呼に行ってから気がついたんですが、知らぬ間に自分の法務能力が上がっているのですよ。伊藤忠の法務部の中にいたから「俺なんか大したことない」と思っていたけど、「俺って結構できるじゃん」と思えるようになりましてね。「普通の会社の法務であれば、一通りできるな」と自分を見直しましたね。

卑弥呼では、株主総会や有価証券報告書の作成の実務に携わり、貴重な経験をしました。また、若い人を育てたいという想いがあったので、メールマガジンで法務の基礎知識を発信したりもしましたね。

でも、だんだん見えてきたんですが、わたしの経験と知識をこの会社の成長に生かすことができるのかというと少々疑問を感じてきました。当時は創業者であるオーナー社長の統制下でしたので、わたしが今でいう「コンプライアンス」を徹底していくと、最終的には社長と対決することになるのです。その社長は尊敬できる人でもあり、わたしとの関係は悪くなかったのですが、独自の経営哲学の下に会社を成長させてきたオーナー社長ですから、コンプラを進めていくといつかは対立することが予想されました。「この人と対立するようになり、不穏な空気を醸し出した挙げ句に自爆するのもイヤだなぁ」と思い始めたわけです。

そう思っていたところに、伊藤忠の法務部の大先輩で、日本製鋼所の法務担当部長をしていた人から、「大学の教授になることになったので、後任としてきてくれないか」と声をかけられたのです。最初は「今の会社で骨を埋めるつもりで転職したのだから」と断ろうと思って公衆電話から電話をしたんだけど、10円玉が足りずに途中で切れてしまってね(笑)。断り損ねたこともあって、伊藤忠で法務部に異動した時のように、「せっかく話があるのだから面接だけでも受けてみるか」と思い直しました。そうして日本製鋼所に面接に行ってみたら、「どうぞ来てください」という話になって、2年間勤めた卑弥呼を円満退社して、日本製鋼所に移ることになったんです。

一人法務からの組織づくり

宮田さんは2000年に日本製鋼所へ転職しました。宮田さんは「日本製鋼所に行ってから、真に「法務担当」と言えるようになっていったと思います」と言います。伊藤忠の法務部に在籍していた期間よりも長い期間を、日本製鋼所で過ごすことになるのです。

宮田さん
当時、日本製鋼所には法務組織がなく、最初は総務部における法務担当部長ということで、1人法務みたいな形だったのです。つまり、何かあったら相談されるぐらいの立場ですね。わたしはまだ52歳で、定年までまだ少々時間があるし、「この会社にきちんとした法務組織を作らないかん」と自分で勝手に意気込みました。

そこで法務の存在を会社に認識させるために、独自に稟議書のような書式を作り、「契約などの検討を依頼するときには必ずこの書式に記入し、上司のハンコをもらって提出してくださいね、法務の意見を付けて決裁しますから」というようにしたのです。社内ルールとして定められたものではなく、わたしが勝手に作ったルールなんだけど、皆さん真面目なもんだから、それを使い出してくれましてね(笑)。そうするとだんだん法務の存在価値が認識され、「法務に相談しないといけないんだ」「法務に相談すると安心だ」という感じになっていきました。

それと、やっぱり大事なのが、従業員・役員とコミュニケーションをとることです。社内を回って、「どうや、元気にしとるか。何か問題は起こっとらんか」という御用聞き兼社内のウォッチをしながら、リスク・問題が生じていないか雰囲気をつかむと同時に顔を売っていくということを、積極的に行うようにしましたね。

それから、卑弥呼でもやったように、法務知識の情報発信ですね。従業員の人数が多いからメールだと難しいので、イントラネット上に「法務ページ」というベタな名称のホームページを作って、社内への教育・啓蒙活動を続けました。

会社はメーカーなので、北海道と横浜、広島に工場があり、各工場はそれぞれ一国一城の主なんです。だから、工場には必ず年に1回は行ってセミナーを開いたり、法務相談会を開いたりして、問題を吸い上げるようにもしました。

そうしていく中で、法務の人員を1人・2人と増やして、総務部の中に法務チームを作りました。その頃にはもうすでに、色んな問題や契約については必ず法務を通すような仕組みが社内に定着していました。

また、2000年頃から世間では「コンプライアンス」がぼつぼつ唱えられ始めていました。わたしは前任者の薫陶を受けて、その頃から企業のコンプライアンスというものを意識していたので、「そういう風土をこの会社の中に作らないといけない」と思いました。そのためには、やっぱり社長をその気にさせないといけないのです。だから社長に、マンスリーレポートのような形で法務案件やリスク案件をまとめて書面で報告し、どういう法務案件が日々生じているのかを意識してもらうようにしました。

ところがね、やっぱりわたしは妙な正義感を押さえられず、役員さんと喧嘩してしまうんですよ(笑)。そのうちに社長にも嫌がられるようになってしまってね(笑)。わたしは社長のために提言しているつもりなのに、社長がわたしを危険人物だと思ったようでね。ショックだったなぁ。まぁ社長を怒鳴りつけたことも何度もあるからなぁ。ちっとも老成しませんでしたねぇ。

初めてのディスカバリー

宮田さん
いい経験になったのが、着任後すぐにアメリカで非常に大きなPL訴訟が起こったことです。アメリカ企業に納めた鋼鉄製の大きな高圧加熱炉が10年以上経ってから爆発し、工場が1つ吹っ飛んでしまった。幸いなことに夜中だったこともあって、人がいなかったからけが人や死人は出なかったけど、当時の新聞で写真を見たら、工場のあった場所が野っ原になっていてね、それぐらい激しい事故が起こったんです。

だから当時としてはかなりの損害賠償請求額でね、日本円で30億、40億円ぐらいの損害賠償請求訴訟が起こされたのです。当時、会社は赤字体質だったから、この訴訟で負けたら潰れるんじゃないかというような重大な訴訟でね。 わたしが入社してすぐに訴状が届いて、世に言う「ディスカバリー」が始まったんです。裁判所がボストンでしたから、PL保険会社を経由してニューヨークとボストンにある弁護士事務所を起用して、当初の1年間は2か月に1度ずつぐらいはボストンに出張しましたね。会社に入社してから2年間はディスカバリーが続きました。

ここで、初めてディスカバリーという作業を実地で経験できたのです。相手方が冷却装置を改造したりして、かなり乱暴な運転を続けていたことは訴訟が提起される前にある程度わかっていたのですが、日本製鋼所に製造上の落ち度がないということを立証する証拠資料を集め、答弁書をつくるために、製造した室蘭の工場に行って当時の記録を探したり、技術者から鉄鋼製品の製造工程の解説を受けたりしました。おかげで、日本製鋼所がどんな物をどんな工程でどんなふうにして作っているのかを、少なくとも鉄鋼製品については理解することができ、法務の仕事を続けるうえにおいても、会社を知るうえにおいても、非常に役に立ちました。

この訴訟はディスカバリーの最終段階で和解に持ち込んだんですが、この経験もまた自信になりましたね。でも、和解の最終交渉に行く直前に、わたしが脳梗塞になっちゃいましてね(笑)。本当だったら交渉を有利にまとめて、「和解交渉を成功に導いたのは俺や!」って言ってヒーローになれるはずのところが、その現場に行けず、リハビリの途中で和解成立の報告を受けることになりました。

結局、日本製鋼所には65歳になるまで勤めました。当時は60歳定年でしたが、わたしは62歳まで法務専門部長として契約して雇われていました。継続雇用制度ができたもんで、契約満了の62歳から65歳までの3年間は再雇用制度に乗っかって従業員教育を担当させてもらいました。会社を辞めても何をしたらいいのかわからないし、家にいても奥さんに邪魔にされるだろうし、会社に行っている方が時間が潰れていいかなぐらいに思ってそうしたんです。65歳で会社を辞めて「自由人」の身となってみて、その開放感と楽しさに、「何であの時辞めなかったんだ」と後悔しましたよ(笑)。

後世への想い

宮田さんは2004年から二松学舎大学大学院で企業法務について、また2008年から2016年2月までは帝京大学でスポーツ法について、授業を受け持っています。また、2004年以降は執筆活動にも励まれ、2016年には「元商社ベテラン法務マンが書いた 英文契約書ハンドブック」(日本能率協会マネジメントセンター)を出版しています。2012年に日本製鋼所を65歳で退職してからも精力的に企業法務の教育を推進しているのには、後世への想いがありました。

宮田さん
二松学舎大学も、日本製鋼所の前任者、わたしを後任として呼んでくれた人がきっかけでね。その人の友だちに二松学舎の教授がいて、ちょうど二松学舎が社会人も受け入れるサテライトの大学院というのをつくったところだったので、そこで「国際法務を教えてくれる人を探しているからやらないか」と紹介を受けたのです。「1コマぐらいなら」ということで、非常勤講師として授業を持つことにしました。二松学舎で教えているうちに、今度は、盟友であり元NBAビジネスのプロジェクトマネージャーであった帝京大学の教授からスポーツ法についての授業を頼まれたのです。残念なことに、その盟友は2014年に癌で亡くなり、深い喪失感を覚えました。

書籍や記事の執筆もしていますが、これは自分の勉強のためにも非常にやりがいがを感じています。それと、自分の今までの経験と知識の賞味期間はもうあまりないだろうから、チャンスがあれば、現役のサラリーマン・サラリーウーマンに自分の知識・経験の中で良質と思うものを伝えてあげたいなとも思っていていますね。そんな機会があるといいなと思っています。

法務の仕事を続けてこられた宮田さんのモットーをお聞きしたところ、「従業員を路頭に迷わせないこと」と答えてくれました。

宮田さん
法務の仕事は、会社がおかしくなって潰れたりすることがないように、リスクの所在を察知し、それを避け、あるいは解消するように働きかけることだと考えています。会社が潰れて従業員が路頭に迷うことがないようにするということです。これは、コンプライアンス体制の構築や経営陣への牽制機能を含みます。

もう一つは、会社が隆々としていても、不注意や知識不足により不正・違法な行為に手を染め罪に問われたり、懲戒を受けることになって路頭に迷う結果にいたる従業員を出さないようにすることです。これは、従業員への教育・啓蒙・指導の仕事です。これらのためには、現場に出向き、現場で考えることが大切なのです。

最後に、宮田さんにご自身の人生について振り返っていただきました。仕事をしていると、辛いことは必ずあります。そんな時、どのようにして過ごしてきたのか、宮田さんらしい言葉で締めくくってくれました。

宮田さん
わたしは27歳の時に今の奥さんと結婚したのですが、この時に一生分の運を使ってしまったので、そのあとはもうほとんど運に恵まれていないんです(笑)。お話ししたように挫折してばっかりなんですが、それやこれやの結果として今の自分があるなという感じです。

商社に入った時は、法務の仕事をするなんてこれっぽっちも考えてなかったしね。最終的には法務が自分に一番向いていたような気がするけれど、最初から法務部に入っていたら、途中で「性に合わん」と言って辞めていたかもしれないし。

「死にたい」と思うほど辛いときもあったんですが、「苦難を乗り越えた」といえるような記憶や意識はほとんどありません。わたしは「自分で乗り越える」というような根性は持ってないから。ジタバタしながら、流されているうちに、結果的にはそう悪くはならなかったなという感じです。振り返ると思うのは、悪いことはそんなにいつまでも続かないということですね。それと、「死ぬほど辛い」と思っていたことも、過ぎ去ってみると「辛さ」の実感はなくなっているのです。いつまでも辛さ・苦しみが残っていては辛いから、脳が自己防衛的に忘れるようにできているのでしょうね。「辛いことがあった」ということは憶えているけど、「辛さ」は覚えていないんですよ。

だから、今「辛い」と感じている人に言ってあげたいのは、悪いこと・辛いことはそういつまでも続くものではないよ、ってことです。生きていれば、またあたらしい局面、新たな一歩が始まり、「あんな辛いことがあったな」という想い出になる日が来ると言うことです。だから、この歳になってからいつも言ってるんだけど、「生きたもん勝ち」なんですよ。

宮田 正樹さん

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