法務キャリアの登り方

第4回 営業マンから一変、40代からの法務人生 「生きたもん勝ち」と語る70歳法務パーソンの人生(中)

法務部
宮田 正樹

伊藤忠商事で営業マンとして入社した後、法務部員として活躍された宮田 正樹さんの半生を3回にわたって振り返ります。前回は在庫と商標権・意匠権に悩まされた営業時代についてお話を伺いました。今回は営業マンから一変、法務部員になるまでの道のりをお届けします。

小さな会社の経営陣(実質的には小間使い)に

伊藤忠商事の大阪本店で商社マンとして勤めてきた宮田さんは、1983年からカナダの子会社に駐在することになりました。当時カナダでは、靴の輸入については過去の実績に基づき輸入できる数量の制限が設けられていました。日本人の社長と宮田さんに加え、カナダ人のセールスマン、倉庫係、オフィスレディーという合計15、6人体制での靴の輸入販売会社でした。

宮田さん
カナダに行ったのは1983年の1月から。言ってみれば、そこで日本の営業マンとしてのキャリアが終わるわけなんですね。カナダではセクレタリー・トレジャラーという肩書きで、営業以外のすべてをやるような、要は「何でも屋」でした。セクレタリーというのは「秘書」ではなく社長の補佐官、トレジャラーというのは財務経理のオフィサー、今風にカッコよく言えばCFOだけど、実際は、輸入通関・出荷・売上、経理から財務、人事や総務など、とにかく経営判断と販売以外の全てのことを1人でやらされていました。6年半いましたが、あの6年半はたぶん人生で1番働いた時期だったと思いますね。

小さな会社でしたから、会社の全体を知ることができました。会社というものがどんなふうに成り立っていて、会社の経理や資金繰りとはどういうことなのか。仕入から出荷、請求、売上、会計、財務、決算、監査の対応などなど、全部自分でやるわけだから、ものすごくしんどかった。従業員に給料を払うことの責任の重さを身をもって感じたことも貴重な経験でしたね。

仕事はきつかったけど、国情の良い国だし、わたしも家内も子供たちも若かったし、後から思うといい時代だったんですが、最後がまた辛い時期を迎えましてね。靴の輸入制限が解除されたのですよ。輸入制限の枠がなくなったらたくさん買えていいじゃないかと思うかもしれないけど逆でね。枠がなくなるということは、たくさん買うだけの資金力と販売力があるところは、自分でドーンと買えるわけなんです。たとえば、日本で言ったらイオンとかイトーヨーカ堂とか、ああいう大型の店はそれまでは枠があるから自分のところだけで必要数量を全部輸入することができず、色んなインポーターからも買い集めないと販売に必要な数量が集まらなかったのが、自分で必要な分だけ全部直接輸入できるということになるわけです。そうなると、我々みたいな中小の取引先から買う必要はあまりなくなるということになります。

枠がなくなったら厳しなるということは、誰もが予想はしていました。ところが、当時の社長は「輸入制限のおかげで儲かっていたわけではない。枠がなくなってもまったく問題ない、そういう体制にしてある」と言って、利益が出ているのは自分の手腕だということを喧伝し、そう言ったままトットと日本に帰っちゃってね、ヒデエ奴でしたよ(笑)。

わたしは状況がわかっているので、次に社長として来た人に対して、「『着任してみたら、ヒドイ状態になっている!前任の社長が立てている予算どおりの利益を達成できるとはとうてい判断できません!』と言って伊藤忠カナダ本社に状況を説明しなさい」と強く言ったんですよ。そうしたら、「僕にはそれは言えない!」なんて言う根性の座っていない人でね(笑)。ブチ切れたわたしは「今度来た社長ではあかんから変えてくれ!」って日本の本部長に直接電話をしたら、えらく怒られましてね。「お前はそれを助けるのが役目だろ」って。「日本にいる奴らは現状がわかっていない!」とまたブチ切れて、電話を叩き切りました(笑)。

わたしはね、サラリーマンに向いてないのですよ。会社に入った時から、上司に取り入るということができなくて。さらに妙な正義感があって、それをすぐ発揮してしまうわけなんです。だから結構上司に嫌われるのです(笑)。

わたしのいた会社が以前のような利益を生まないことがわかってきた時には、突然、伊藤忠カナダ会社の社長が「いま会社を潰した方が金が残るって言うじゃないか」と言い出したから、またカチンときてね。年末だったんですが、年が明けると出荷のピークが始まり、春は売掛金が最大値(年商の6割強)に達する時期で、いま潰されるわけにはいかないのです。貯まっている自己資本をうまく取り込もうという経営判断なんでしょうけどね。

そこで「何考えとんのや、従業員のことをどう考えてるんや!」と大喧嘩をしました。そうしたら、「それならお前がやるか?」と言われてね。売掛金の回収と生き残り策とを模索して、最終的には会社を伊藤忠カナダ会社に吸収合併してもらう形にすることにしました。セールスマンたちの雇用を続けることはできませんでしたが、「1年間は今までの収入を維持するし、その後も今まで通りの売上を維持してくれたら、同額の収入は確保できるように歩合を設定してあるから」と説得して、歩合制の個人事業主になってもらいました。セールスマン以外の従業員はまったく高給取りではないので、そのまま雇用を続けることにし、伊藤忠カナダ会社と合併したのです。

でもその後、合併に至るまでのアドレナリン全開状態から解放されたショックと、合併前に約束したことを守ってもらえなかったりするという新たなストレスにより、心身に変調をきたし始めたのです。後から思うと重度のうつ病を患っていたんだと思います。頭が回らなくなるし、左足が動かなくなってきて、引きずってでしか歩けないようになりました。もはや廃人寸前の状態になり、家族(会社まで車で送り迎えしてくれた家内)にも迷惑をかけました。「宮田は様子がおかしいで」と皆がわかる状態なもので、噂は日本に伝わり、日本から様子を見に来てくれた人が、「これはあかん」ということで、急遽、帰国させられることになりました。大うつ状態は結局5か月近く続いたんですが、ストレスの元凶から離れることになったこともあり、日本に帰国する道中の旅が転地療法の効果を果たしたようで、日本に着いた時にはほぼ回復していました(笑)。

モントリオールに駐在していた頃の宮田 正樹さん(36〜37歳頃)

40代からのジョブチェンジ

1989年に帰国した宮田さん、ちょうどその年は昭和から平成へと変わる転換の年にあたりました。そして宮田さんもまた、今後の人生を変える転換の年となったのです。

宮田さん
日本に帰ってきてから、元々在籍していた大阪の営業課に戻って、最初はユルユルと仕事をしていたんですが、1か月ぐらい経ったら本部長に呼び出されましてね、「東京の法務部が国際法務の担当者を社内公募しているから、君、行きなさい!」って言うんですよ。「いくら法学部を卒業したとはいえ、そもそも全然勉強してなかったし、していたとしても忘れてますよ」と言ったんですが、「君ねぇ、もうここには君の席はないんやぞ。法務に行くか、他にどっか行き場所探すか、それしかないんやぞ」と言われましてね。要するにリストラってことなんです(笑)。そこまで言われたら究極の選択だから、「通らんと思いますけど、面接だけは受けに行きますわ」ということで、東京まで面接に行ったのです。そしたら、騙したか騙されたかわかりませんが、「法務に来てみるか」という話になり、ここからわたしの法務パーソンとしての人生がスタートすることになりました。

異動してからは、法務部もわたしが全くの法律の素人だということがわかったもんだから、「国際法務ではなく、まずは国内法務から勉強してもらおうか」となったわけです。最初は新人がやる仕事ということで、担保評価の仕事から始めましてね。当時はまだバブルのピーク時だったから、担保提供されている不動産の価格がどんどん上がっていくような状態で、再評価すると極度額をオーバーするので全然苦労がなかったです(笑)。

それからちょっと慣れてきた頃に上司との面談があって、「宅建を受けろ」と言われました。そこで宅建のテキストを買って読んだんだけど、「これは性に合わんな!」と(笑)。だもんでマジで勉強しなかったわけです。そうしたら、見事に試験に落ちましてね。「君はダメだね」と上司に冷たく怒られまして、本当に辛かったです(笑)。それで心を入れ替えて真剣に勉強して、翌年は合格できました。その経験があるから思うんですが、新入りの法務部員が最初に宅建の試験勉強をするっていうのは、すごくタメになる。民法の基本が身につくわけです。これは、当時のわたしのように法学を勉強していなかった新入り法務部員を教育する上では、良い方法だと思いますね。

宮田 正樹さん

自分の武器を持つ

宮田さんが法務へ異動したのは42歳の時。これまで法務の経験がない中で、新しい領域に挑戦するのは、大変な苦労があったと推測できます。彼はどうやって道を切り開いていったのでしょうか。

宮田さん
法務に異動した時は42歳になっていましてね、要するに「おっさん」なわけですよ。サラリーマンとしては中堅どころ。それが初歩的な知識もないような世界にいるものだから「人がみな我より偉く見ゆる」日々なわけです。だから居場所がなかなか見つけられなかった。唯一できることといえば特技である酒を飲むこと。これだけで、全法務部員と親しくなったのです。「酒の場なら宮田さんがおるな」という存在感を一応作ったんですが、それでも知識がないから後ろめたい気持ちがあって、居心地が悪かったですよね。

その辛さを救ってくれたのが、営業の時に抱いた商標・意匠への恨みなんです。法務へ異動してちょうど3年目ぐらいに、特許や商標・意匠を担当していたメンバーが出向でいなくなることになったんです。部として後任をどうしようかと相談しているらしく、わたしとしては「ぜひやりたい」と言いたかったんだけれど、「普通の法務もできないくせに何言ってるんだ」と思われるんじゃないかと、言い出せずにいたんです。そうしたら逆に、「宮田君、やらないか?」って声をかけられてね。「ぜひやらせてください。商標と意匠には恨みがあるんです。だからあれを1度モノにしたいと思っていたんです」と言って、担当することになったんです。

これね、お互いうまく合ったという話なんですが、よく考えてみると、当時は知的財産権なんて法務の本流ではなかったのですよ。だから、これから法務を背負っていくような若者に傍流をやらせるよりも、わたしのような中古を使った方がいいじゃないかというのが上の考えだったのでしょうね。でも、わたしとしては恨みがあったということと、自分のエキスパティを持ちたいという想いがあったので、願ってもないチャンスでした。担当するにあたってずいぶん勉強もさせてもらいました。そうすると、傍流の法域なもんですから、本流の人はあまり勉強していないわけで、すぐに「伊藤忠の中では」わたしが知的財産権のエキスパートになるわけです。そこでちょっと「居場所ができたな」と思えるようになり、それから余裕を持って仕事ができるようになっていきました。やっぱり、自分の武器を持てたことが心の安定にもつながり、自信にもつながりましたね。

後に宮田さんは帝京大学でスポーツ法に関する授業を行うことになるのですが、そのきっかけとなる出来事がありました。それが、NBA(National Basketball Association、ナショナル・バスケットボール・アソシエーション)の 仕事です。

(写真:M-SUR / mrvirgin / Shutterstock.com)

宮田さん
伊藤忠がアメリカのNBAと1988年に基本契約を結んで、日本でのNBAのビジネス展開はすべて伊藤忠をパートナーとしてやることになっていたのです。ちょうどマイケルジョーダンとかが活躍して人気が上がっていった頃で、NBAのビジネスがどんどん膨らんでいたのですが、ちょうどわたしが知的財産を担当しはじめた92年ぐらいに、国内のライセンシーとライセンス関係をたくさん結ばないといけないので「NBAビジネスの推進チームを手伝ってくれないか」という話が舞い込んだのです。

そこでわたしのスポーツビジネスとのつながりができるんです。この時のNBAビジネスのプロジェクトマネージャーだった人が後に伊藤忠を辞めて、帝京大学の経営学部でスポーツ経営学の教授になってね、わたしに「スポーツ法学の授業をやってくれないか?」と声をかけてくれることになるんですが、そんなきっかけになったのが、このNBAのビジネスなんです。

1992年にNBA側が伊藤忠のビジネスチームのために、ニューヨークで一大カンファレンスを開催してくれまして、スポンサーシップや試合、選手の管理方法などNBAのビジネスについて3日間かけてレクチャーしてくれるという機会がありましてね。わたしもそれに参加して非常に感銘を受けました。アメリカのスポーツビジネスの世界というのは、こんなにもオーガナイズされて、真面目にやっているんだとビックリしました。選手の発言にしてもきちっとレクチャーしていて、皆素晴らしいスピーチをするわけですよ。ライセンシングやスポンサーシップに関しても、とても緻密に組み立てられていて、皆一生懸命やっている。日本のスポーツビジネスとの違いを実感しましたね。この仕事をして、スポーツビジネスの基本を教えてもらったという感じです。

武器を経験に

(写真:Baiterek Media / Shutterstock.com)

宮田さん
知的財産権関係の仕事で、記憶に残っている事件の一つに、海外(タイ国)での商標権侵害による刑事事件があります。伊藤忠で昔から世界各国に輸出している缶詰のブランドがあったのですが、それがタイ国で第三者に商標登録されていたことによって生じた事件なんです。1950年代ぐらいから缶詰は日本の輸出産業だったんですね。その後、靴と同じように日本での生産では輸出競争力がなくなり、世界各地に生産拠点を移すことになります。そのブランドは日本では当然、商標登録し、他の国(主に輸出先の国)でも商標登録していたんですが、タイではしていなかったんです。当時はタイに輸出するというようなことはなかったからでしょうね。

当該ブランドの缶詰をタイで生産して輸出するようになったので、タイで商標登録しておこうということになり、いざ出願したら同じロゴマークですでに1960年ぐらいに商標権を取っている業者がいたのです。いわゆる商標ブローカー的な業者なんですね、他にも結構有名ブランドを商標登録していましたから。多少のお金は払っても良いからと買い取り交渉をしたら、相手のタチが悪くてね、「譲るのであれば3億円用意しろ」と言うわけです。頭が冷えるのを待とうと静観していたら、相手が突然、「〇〇は我々の商標です」という新聞広告を出しましてね。これは訴訟の準備を始めたのだろうと思い、既契約残を出荷し終えたら、しばらくそのブランドは使わないようにすることにしたんですが、その缶詰を港に運ぶ途中のコンテナがタイの警察に押収されて、刑事事件が勃発(笑)。

刑事事件だから下手すると担当者が捕まったりしますからね。その事件を処理するために、タイに3回も出張して、現地の弁護士事務所に相談して、最終的にはわたしも相手側と直接交渉して、「ウン千万円まで、あんたらに払うか、弁護士に払って訴訟するかがわれわれの選択肢だけど、どっちがいいか考えろ」と商標権を売るように迫りました。それでも答えは「No」。仕方がないので、弁護士に警察や検察と交渉してもらい、1年かけてやっと不起訴にこぎつけました。それから当該ブランド製品のタイでの生産はやめました。生産地での商標登録を忘れるとえらいことになりますよという教訓を得ましたね。

もう一つは、伊藤忠では珍しく日本で特許の訴訟になりかけたことがありましてね、途中で和解したんですが、相手方の特許の無効審判を申し立てたことがあります。この争いで、特許とはどういうものなのか、相手の特許を潰すにはどういうことをすればいいのかということを特許事務所と一緒に検討して、教えてもらいながら進めていったことにより、以前は「技術系で難しい」と思っていた特許に対する抵抗感をなくすことができました。ここでもちょっと心の余裕ができた気がしますね。「特許」と聞いたら逃げようとするところを、逃げなくても大丈夫だという風に思えるようになりました。

こうして、所属するチームが担当する事業部の法務案件に対応しながら、今述べたような知財の案件を担当するというようなことをずっと重ねていったわけですが、1998年に伊藤忠を辞めたんです。さっきも言ったように、わたしはサラリーマンとしては評価も良くないし、法務の仕事自体は割と肌に合ってはいたんだけど中途組だし。それに、商社の法務はプロジェクトごとに完結していくので、「このビジネス」「この会社」の成長に喜びを覚えるといった達成感や満足感にやや欠けるんです。

この先伊藤忠にいても大したことはできないだろうなと感じて、当時50歳ぐらいでしたから、60歳に定年するとして、そこまでの10年間は今までのキャリアを全てその会社のために使えるようなところに転職したいなと思い、人材斡旋会社に登録したんです。それで一番に紹介されたのが、靴メーカー・小売業の卑弥呼でした。

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